書籍紹介 世界は分けてもわからない

帯のキャッチコピー
顕微鏡をのぞいても生命の本質は見えてこない!?
科学者たちはなぜ見誤るのか?


第5章 トランス・プランテーション 
この世界がもつ可逆性 

TRANSPLANTの、現代的な字義は、臓器移植という意味である。先に述べたとおり、臓器は本来、切り離すことが出来ず、はめ込む事も出来ない。私たちが臓器と呼んでいる「部分」と身体とのあいだには、機能的な境界は存在しないからである。分子レベルの物質的な基盤においても、酸素や栄養素といったエネルギー交換のレベルでも、神経系やホルモン系を介した情報交換のレベルにおいても、ボーダーはない。<ここから切り離してください>、そのようなことを許す点線はどこにも存在しない。
 しかし今日、私たちは、脳幹が機能を停止した身体を「死体」と定義し、そこから部分を切り離し、それを機能的なモジュールとして、あるいは純粋な意味での個物として、別の筐体に穿った穴にはめ込むことを行っている。
 臓器移植が医療としてわずかな有効性を示しうるとすれば、それはこの技術の革新性がもたらしているものでは、おそらくない。生命が本来的にもっている可逆性に支えられているのである。
 切り取られ、無理やりはめ込まれた部分としての臓器に対して、身体はその不整合ゆえに、けたたましい叫び声を上げる。激しい拒絶反応が起こり、異物排除のための攻撃が始まる。不連続な界面に、全身から白血球が集まり、抗体が生産され、延焼が発生する。移植臓器がこれに耐えかねた場合、臓器は壊死を起こし、その場にとどまれなくなる。
 なんとか臓器が持ちこたえたとしても、免疫応答を抑え込むために、強力な免疫抑制剤が処方されなければならない。果てしない消耗戦であり、レシピエント(臓器の受け取り手)側は免疫能力全般のレベルダウンを余儀なくされる。新たな感染症におびえねばならない。
 しかし、ここに奇妙な共存関係が成り立つこともある。レシピエントの免疫系は、やがてその攻撃の手を緩め、ある種の寛容さを示したかに見えるようになり、移植臓器も、完全にしっくりとは行かないまでも周囲の組織と折り合いをつけるようになる。まさに文字通り、植えかえられた植物のごとく、新たな根を張り、茎を伸ばして、血管系や神経系を徐々に再生して、代謝上の連携を結ぶようになる。ひととき、大きくかき乱された平衡は、徐々に新たな平衡点を見つけるのだ。生命現象が可逆的であり、絶え間のない動的平衡状態にあるとはこういうことである。
渡辺剛さんは、私に言葉を求めたが、その実、私の方が渡辺剛さんの作品から気づかされたのだ。『Border and Sight』は、この世界における界面の実在を追求し、かつ一貫して疑ったものであり、『TRANSPLANT』は、この世界がもつ可逆性を指示したものなのである。
 ここに写された植物群は、その場所に自生していた在来種ではない。よその場所から強制的に切り取られ、無理やりはめ込まれたものである。おそらく植物たちは、最初は気候の激変に適応できず枯れ、あるいは道の害虫の餌食になり、また周囲から容赦なく侵食する雑草群に打ち負かされて幾度となく全滅したにちがいない。
 しかし、トランス・プランテーションンが繰り返されるうちに、そこに奇妙な適応と寛容と可逆的な変化が生まれたのだ。外来種だったものはいつの日か在来種となり、在来種だったものは移動し別の日には外来種となる。いまではこの植物たちは、青々と我が物顔に繁茂し、風を受け、しっかりと大地に根を張って、この場所に新しい動的な平衡点を見出しているのだ。
 しかし、それは人間が何かを制御しえたこと、あるいは何かを制圧したことを示すものではまったくない。

第6章 細胞のなかの墓場
プラスαの正体


 写真家渡辺剛さんの作品『Border and Sight』と『TRANSPLANT』は、またあるとき私に別の事を考えさせた。動的な平衡状態にある空間から、ある部分を切り抜いてくる行為が何のためらいもなく成立するとすれば、動的な平衡状態を保ちつつ、推移する時間の流れから、ある部分を切り取ることであっても平然と行うことが出来るだろう。
 生命現象において部分と呼ぶべきものはない。このことは古くから別の表現でずっと言われ続けてきた事である。例えば次のように。

全体は部分の総和以上の何者かである。

 生命は臓器に、臓器は組織に、組織は細胞に分けられる。さらに生命を分けて、分けて、分けていくとタンパク質、脂質、糖質、核酸などのパーツに分解できる。アミノ酸は単なるありふれた物質だ。どこにでもある。化学調味料だってアミノ酸だ。
 でもこれらミクロな物質がひとたび組み合わさると動き出す。代謝する。生殖して子孫を増やす。感情や意識が生まれる。思考までする。
 確かに生命現象において、全体は、部分の総和以上の何者かである。この魅力的なテーゼを、あまりにも素朴に受け止めると、私たちはすぐにでもあやういオカルティズムに接近してしまう。ミクロなパーツにはなくても、それが集合体になるとそこに加わる、プラスαとは一体何なのか。
 生命を生命たらしめるバイタルなもの、それは「生気」である。生物はミクロな部分から成り立っている。そこにプラスαとしての「生気」が加わって初めて生命現象が成立する。名づけてバイタリズム。生気の正体は全く明らかにされないまま、実際、たくさんの生物学者がかつてこの蠱惑的な考えに取りつかれた。その真摯な、同時にどこかしら奇妙な探究を跡づけることはここではしないけれど、たとえば最も優秀な生物学者たちによってこんな事が議論された。生物は死ぬと「生気」が離脱する。ゆえに死の瞬間、わずかに体重が軽くなると。
 もちろんそんなことはない。私たちの体重は水分の蒸散や呼吸によって刻一刻変化する。そしてそもそも「死」に、その瞬間と呼べるようなボーダーはない。
 でもプラスαはある。一体、プラスαとは何だろうか。それは実にシンプルな事である。生命現象を、分けて、分けて、分けて、ミクロなパーツを切り抜いてくるとき、私たちが切断しているものがプラスαの正体である。それは流れである。エネルギーと情報の流れ。生命現象の本質は、物質的な基盤にあるのではなく、そこでやりとりされるエネルギーと情報がもたらす効果にこそある。

世界は分けてもわからない (講談社現代新書)
講談社
福岡伸一

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私たちはいつも星座を ...
理系とくに生命科学出 ...
ミクロとマクロが折り ...
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深い!

脳死移植法の問題がありますが、
誰に「死」と決める権利があるのか?

国に決める権利がありますか?
医者が?


沖縄県沖縄市
富村カイロプラクティックオフィス
富村政昭

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